2015年9月14日月曜日

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活(完全復活を目指して)  No161

脳卒中感覚麻痺のリハビリでの回復度の目安についてね。   ブログである方が差別用語について投稿されていたので、障害者の私も持論をね。   脳卒中リハビリで悔いを残さないためには。   脳卒中での医師の説明の善し悪しについてね。   宝くじ等の損得勘定についてね。   多人数での場合、人格障害や認知症等の症状の無段階変速器的な現れ方。   ブログである方が「愛」について投稿されていましたので、私の思う愛についての持論ね。  9月7日(月)、脳卒中感覚麻痺のリハビリでの回復度の目安についてね。上肢の方が感じやすいかもね。感覚麻痺の時に回復度を考える上で障害になりやすいのが視覚ね。視覚情報なしでどの程度の作業ができるのかということが一番参考になると考えています。例えば、物を掴むときに、大体の場所等を視覚で確認後目を閉じて手を伸ばして探りながら掴んでみるというものね。健常側では楽にできても麻痺側ではできないというのは大切な感覚神経が回復していないということですよ。そして、動作にどの程度感覚情報が大切かを身にしみてください。そして、この回復は動作が多ければよいというものではないと考えています。適切適度なリハビリ動作ということね。それと、脳での神経細胞のつなぎ替えの促進を考えた栄養摂取ね。むやみやたらの動作とかの繰り返しは特定のシナプスの接続だけが強くなって、それ以外でシナプスが乖離してしまうのではとね。シナプスの接続増強ね。特定パターンの手続き記憶の形成ね。変な癖が直らない理由ね。本当に健常側の手では楽にできる程度の手探りが麻痺手では未だにできないです。グッパ等が楽々できてもね。腕の曲げ伸ばしも楽々できてもね。「見ながら」ならできてもね。この段階での筋トレ等は筋緊張亢進→痙縮→拘縮と突き進むでしょうね。怖い、怖い、怖い。筋トレ等をしなくても筋紡錘や腱ゴルジ装置や皮膚からの感覚の回復に応じて筋力が発揮できていますよ。運動神経と感覚神経等が揃って働いての筋力ね。目を閉じた状態での動作の感じとかを健常側と比べてみるのもよいのではと考えています。感覚情報があっての動作だよ。「走る」ためには足の感覚の完全回復が必要と思います。特に大股での疾走ね。  9月8日(火)、ブログである方が差別用語について投稿されていたので、障害者の私も持論をね。差別用語には差別を意識して作り出された用語と元々は差別意識なしで普通に使われていたが用語を利用者が差別の意識を込めて使い始めたことによる用語の2種類に大別できるのではと考えています。差別する人は多くの場合、その人の人格を維持するのに「自分より劣っている」(思い込みね)ことに拠り所としているのではと思ったりしています。人種差別や民族差別などもね。何をもって劣っていると思うのかということとそれの意味することを自分の都合のよいようにしか考えることができない人ね。ただね、差別意識は親から子、子から孫へと引き継がれていく傾向があります。ですから、用語だけの規制では差別意識をなくすことは難しいと考えられるのです。「いじめ」もこの延長線上にあるものではと思います。どのような言葉も使い方で差別用語になってしまうのですよ。ですから、他者と比べないでも生きていける人格をもった人間を増やしていくことが差別の解消に繋がるのではとね。「いじめ」も差別の一種かな。言葉は徐々に使われ方等が変化していくものなのです。だから、国語という教科の中に古文という科目があるのですよ。差別用語も時代とともに変遷していくでしょうね。差別をなくすように常に取り組んでいくほかはないと思います。  9月9日(水)、脳卒中リハビリで悔いを残さないためには。私の回復歴は可動域とそのための筋肉の柔軟性と関節の動きの確保に焦点を絞ってしてきた風なのですが、刻苦奮闘した記憶がないのです。それで、ラジオ体操的動作がほぼできますし、手や指の動きもよいですよ。救急病院で自主リハでチト生活動作的なをしてみたら動きが当時としては極端に悪くなったので止め。楽に動かせるというのに徹底した感じね。感覚麻痺ですから筋力は感覚の回復に応じて回復すると思っていたらその通りになってきました。動作の正確性も感覚の回復に応じてね。ですから、発症後に「・・をしておけばよっかった」とかという悔いはないです。脳卒中だけで医師のお告げが「一生車いす生活」程度でどうして立つことができないのですか。不思議です。ただ、順序がありますよ。当初は介助ね。このとき、両側とも麻痺されていたら話は別ですか、私みたいな片麻痺では健常側で掴まり立ちができるはずだよ。そのうちにベッドと車椅子間の移乗も介助から見守りにね。コツを教えてもらって健常側頼りね。普通の場合、足は片足で体重程度は掴まり立ちとかですと何とかなりますよ。このとき、麻痺側が健常側の動きを妨げないようにね。このためには足の関節の可動域が健常者並みの方がいいですよ。足首の可動域は先日ギャルセラピストさんと公園の小山(動画と静止画カテゴリー参照を)に登ったときに感心されましたよ。もっと急斜面でも上り下りできるけどね。筋力じゃないですよ、可動域だよ。四肢においては「可動域優先」でリハビリをしてきたことに間違いはなかったということね。感覚神経の回復も適切適度な動作が必要です。特に筋紡錘と腱ゴルジ装置の筋肉関係ね。適切適度だよ。「悔いを感じていない」理由は時間が掛かっても回復の可能性をしっかりと掴んでいるからですよ。私の可動域は健常者並みだから思えることかもね。発症時から適切適度なリハビリをしていたら脳卒中風姿勢や動作(後遺症?)は防ぐことができますよ。重症者は手間暇が掛かりますけどね。後遺症を治そうとするのではなくリハビリで予防して俗にいう後遺症にならないようにね。  9月10日(木)、脳卒中での医師の説明の善し悪しについてね。その患者が理解できているのなら「視床出血です」とかぐらいでもよいとは思いますが、普通はこれでは患者は判らないでしょうね。ですから、脳の模型を見せながら時間をかけての説明がまず必要かと思うのです。脳の部位によっての障害の出方についてもね。次に四肢については「運動神経系と感覚神経系が揃って働く必要がある」ということなのですが、取りあえず動かすには運動神経系だけでも可能であるが、制御ができないことでの悪影響も強調しておく必要ね。どうもブログの投稿ですと説明不足、患者の理解の確認不足、不適切断言等での過剰リハビリ誘発・諦めによる廃用症候群の促進の両極端になってしまっている感じを受けるのです。高次脳機能障害があれば四肢のリハビリにも影響するはずだしね。あるリハビリ病院で歩行のリハビリができている患者に「歩行は諦めてください」とかいった大馬鹿医者がいたようですね。このある方の投稿よりね。この方、即日退院して感じとして過剰リハビリ一直線になってしまったようです。馬鹿医者の責任ですよ。良医はよく調べてから十分な考慮の上患者に判るようにしっかりと説明しますよね。そして、その後にも責任を持とうとしますよね。  9月11日(金)、宝くじ等の損得勘定についてね。普通の事業とは違いますよ。普通の商売はうまくいくとそこら中(供給元もその事業者も労働者もお客さんも)が利益を得ますが、宝くじはね。これ、「ゼロサムゲーム」の一種かな。「ゼロサム」どころか宝くじは45%ぐらいかな、販売額のうちの賞金額ね。ですから、私は捨て金程度での一攫千金を期待するものであると思って過去購入していました。当選する人は一回の購入することもあるし、長年の連続購入の賜だったりね。確率論の世界から逃げることのできないですよね。宝くじは発行自治体の収益に45%だったかな。だから、所得税住民税非課税ですよね。競馬等は75%の戻りだったかな。競馬等は一時所得になりますが、現金で馬券等と購入している人が確定申告なんかしているのかな。年50万円を超えると申告する必要が出ますよ。高額馬券とかが出た場合はどうしているのかな、換金のさいにね。その意味で競馬等はネットでするものではない気がしています。ネットですと取引記録が残るものね。宝くじやスポーツくじ等はネットでもよいかな。所得税住民税の税金関係ないものね。  9月12日(土)、多人数での場合、人格障害や認知症等の症状の無段階変速器的な現れ方。典型例ばかりではないですよ。自動車の変速器は以前は後退と前進4段とかでしたね。オートマチックになってもこれが続きましたが、あるときから無段階変速器というのが出現しました。で、人間の病状とかは後者の無段階変速器的なのが多いですよね。アルコール中毒といってもいろいろなパターンがあって典型的というのはそうないと思います。認知症も人数が多いのと高齢でお亡くなりになる方が多いので家族以外は典型的には遭遇しないのかもね。発達障害も症状がいろいろね。ところで、人格障害とかが全くないという人はどの程度いるのでしょうか。大抵は多少は混ざっていると思うのです。かく言う私も多少はあると思いますけど、問題は人格障害バリバリでそのことに気がついていない人ですよね。ハラスメントをしていて全く気がつかない人とかね。指摘されたらさらに悪化することもね。帝国陸軍なんて人格障害者の巣窟だったかもね。だから、温厚な上官のしたことが美談になるのですよ。自衛隊も時々「いじめ」事件が発覚したりしますが、帝国陸軍などの名残なのでしょうか。「愛」とか「差別用語」とかの問題と深く絡んでいますよね。先月の寝屋川の事件でも「どうして家に帰らなかったのか」ということは今の家庭の置かれている状況があって、今後増加する恐れがあると思います。社会的な影響(劣悪労働環境とか)で崩壊家庭が増加する危険性ね。  9月13日(日)、ブログである方が「愛」について投稿されていましたので、私の思う愛についての持論ね。あるマンガで「これだけ愛しているのに」ということについて論じられているのを読んだことがありました。「これだけ愛しているから自分の思い通りになってほしい」というのが根底にあるのではとね。「愛」ではなく自分思い通りにね。これって、本当に「愛」なの。ストーカーやDVの感情と同類ではとね。「共依存」というややこしい関係もありますしね。「共依存」で調べてみてね。子育て時では「躾」に虐待とエゴと愛とかの問題かな。子育て時にも「共依存」関係があったりね。子育て時には「待つ」というのも必要ですが、「待てない」のが虐待にね。「親の希望を子供に押しつける」というものね。この「押しつける」というのは「虐待」ですよ。「愛」ではなく「虐待」ね。「愛する」というのは「愛されたことがある」という経験が必要なのかもと思うことがあるのです。私自身がどの程度、愛されてきたか、愛してきたかは私からは論じられないと思いますし、論じる気もないです。ペットとしての子育てをされている親も結構いるみたいです。このようなことに深く興味を持ち始めたのは職場の同僚に「教科書通りの典型的アルコール中毒患者」がいたからです。アル中はまずは「アル中らしさ」の人格障害があって、それをアルコールで癒やそうとするためであるとね。「断酒」だけでは無理なのでですよ。人格の再構築が必要というのです。「愛」が必要であり、愛されているということを感じ取る感受性も必要なのですよ。「愛」って難しいね。英語の「I love you」は安っぽい使われ方もありますね。(映画「101」や「ローマの休日」とかでありましたよね) かと思うと「屋根の上のバイオリン弾き」では「LOVE」は過激な感情として扱われてたりとね。男女や世代や国や時代や民族でいろいろですね。

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