2022年2月19日土曜日

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活(完全復活を目指して)  No495

発症時の記憶。6回目。   発症時の記憶。7回目。歩行のほかに「階段昇降」、障害者風を指導してもらいました。   発症時の記憶。8回目。今日でちょうど発症10年です。   発症時の記憶。9回目。今回から、一応、上肢についてね。   発症時の記憶。10回目。リハビリ病院転院で上肢も本格的?リハビリです。   発症時の記憶。11回目。OT室のソファに脹ら脛がちょうど密着みたいになるのがあったのです。これでいたずらね。   発症時の記憶。12回目。STね、元々発声不明瞭もあったし嚥下障害の恐れもあったしか、リハビリ病院ではSTもありました。  2月7日(月)、発症時の記憶。6回目。最初にPTのリハビリね。一応、下肢ね。非常によたよたと杖歩行が少しできていたので歩速を測定しました。10mをわずか38秒しかかからなかったということでした。1kmあるくときは3800秒ですね。その前にぶっ倒れていますよ。転院してしばらくの土曜リハで杖なしで60m近く歩かせたPTがいました。「何するのだ。体の準備ができていないのに」。そう、すこし歩けるのなら、補助付きで時間をかければね。それは後々問題を超すことになるのにね。担当のPTとは土曜リハには「は行で始まる名前のセラピストさんお願いしますと」かね。ボチボチやっていました。車いす着座での両足活用ちょこちょこ歩行で関節がよく動かせることから転院1ヶ月強で健常者風へのリハビリが始まりました。でも、「歩数を」とかは全くなかったです。リハビリ後の自主リハも始まったのですが、短時間で切り上げて病室に戻ってハリポタです。健常者風では体重計2台使って健常側と麻痺側への体重のかかり具合を確認したりとかもね。歩容の修正とかいろいろ指導してもらいました。関節が楽に動かせるというのがよかったようです。  2月8日(火)、発症時の記憶。7回目。歩行のほかに「階段昇降」、障害者風を指導してもらいました。PT室の模型でね。転院月末ころね。このあたりだったかな、「装具」の話が出て、自前のを購入することにねオルトップの一番お安いのにね。これでも、装着は邪魔くさかったです。そのうちに病棟内杖歩行可になっても、朝の起床時のトイレ行きは車椅子を使っていました。事情があって、退院日まで車椅子確保していました。お安い装具でこれですから、ロボットは非常に面倒でしょうね。転院の翌月中頃に「床からの立ち上がり方」をね。捉まるものがない状態でのね。関節の動きがよいから教えてくれたのかな。車椅子に乗って転院してきたのが、その2ヶ月後ぐらいには病棟内杖歩行許可されたのでした。健常者風ですから、基本杖はつかないですが安全のため常に持ち歩いています。今もです。歩行許可月の末日には階段単独昇降が許可になりました。なにがというと、リハビリ時にリハビリ室に行くのに時間の計算ができるようなったということです。リハビリ病院のエレベーターは時間の計算ができないと思った方がよい状態ですよね。  2月9日(水)、発症時の記憶。8回目。今日でちょうど発症10年です。階段ですが、転院2ヶ月後ぐらいから模型ではなく本物の階段でリハビリね。ある時期からは、こちら側から要求もしたりね。許可後は一日5往復ぐらいだったかな。1階から5階までね。健常者風昇降ができるようになっていました。あるとき、リハビリ室に行こうと5階から階段に出たら、土曜リハでお世話になった病院一足の長い女性セラピストさんが後とについて様子を観察されたのです。「早く追い抜いてよ」状態ね。1階まで見守られました。転院3ヶ月頃に「小走り」の指導もね。転院時車いすだった私がです。これも「車いす着座での両足活用ちょこちょこ歩行」のお陰かな。数回だけでしたが。リハビリ中にある女性セラピストさんが他の患者さんとリハビリで歩いていたので、その後をついて行っていたら、私を指導中のセラピストが「こっち」方向を変更させられました。「なんで」と聞くと「セラピストには変更させる権利がある」とね。そんなかんじでリハビリしていましたが、「車いす着座での両足活用ちょこちょこ歩行」休むことなく毎日おこなっていました。転院時10mを38秒必要だったのが退院時には6分で420mになっていました。健常者風で無理せずに歩行ができると速さも距離も出しやすくなります。まずは「楽に動かせる関節」ね。 筋力云々より関節可動ですよ。で、退院時まで病院の車いす確保ね。なので退院日まで「車いす着座での両足活用ちょこちょこ歩行」ができました。  2月10日(木)、発症時の記憶。9回目。今回から、一応、上肢についてね。下肢と違ってなんとか健常側で動かせることが限定的ですができますね。これを活用することになったのです。救急病院での最初のOTで「広げることができたらつかめるよ」といわれて、病室に戻ってから、「他動での腕伸ばし、指伸ばし」ね。なぜか、他動のみね。このときに脳はそこら中の筋肉に収縮命令を出して感覚情報で必要のない筋肉への収縮命令を出さなくなっているとね。リハビリ時間ですこし自力で広げて物体をつかんでたりしましたが・・。1~2週間ぐらいしたら、自力でゆっくりの指伸ばしと指曲げができるようにね。脳神経外科部長がびっくりね。リハビリ用に小物を持ってきてくれていたのですが、ボチボチ程度しかしなかったです。OTさん推奨のチラシパイプ重量挙げスタイリハビリもボチボチしました。肩揚げはリハビリ病院退院後の整形外科での吊り輪形式の健常側で麻痺腕を持ち上げる用具が役に立ったと思いました。あるブログに「鴨居タオル」で同様の目的でされたとの投稿を読んだことがありました。上肢も下肢同様「関節可動域」重視ね。  2月11日(金)、発症時の記憶。10回目。リハビリ病院転院で上肢も本格的?リハビリです。感覚麻痺ということで感覚の戻り具合というのが大切なのか中の見えない袋の中にいろいろな形の物を入れて、探っての見つけ出しや表面のざらざら面を見えないようにして指で感じるのとかね。徐々に指作業的なこともね。そうこうしているうちに4月ですね。新人が入ってきました。担当のOTに女性の新人がついたわけですよ。なん日かして土曜リハの代休時に新人だけでという一時間だけの担当変更票をわたしよったから、「この票なしで変更」してとね。そう、担当を交代してよです。代わってくれました。「リハビリ病院が天国」という実感ですね。徐々に作業がきつくなっていくわけですよね。そうすると、緊張が高くなりすぎたと感じたら、「緊張が高くなってきたので休息します」といったこともね。こっちも一人で車椅子でリハビリ室に行けるようになると「自主リハ」ね。話をしながらのリハビリは楽しいですが、一人だけはつらいですね。サボり気味ね。なので、筋緊張亢進にならなかったのかもね。リハビリは根を詰めてするものではないですが必要量は必要ですね。  2月12日(土)、発症時の記憶。11回目。OT室のソファに脹ら脛がちょうど密着みたいになるのがあったのです。これでいたずらね。普通、椅子から立ち上がるときは前屈みにですよね。そう、重心を足の所定範囲に入れるためですね。ところが、足がある意味固定できるのでしたら、範囲外でも立ち上がれるのです。椅子の形状によってできることね。それができるソファーがあったのでした。上体を垂直のままで立ち上がるということをこの女性セラピストさんの目の前でしたわけですよ。普通なら、尻餅ですがすっと立ち上がれたわけです。びっくりしていましたよ。くれぐれも椅子の形状等の条件がそろっている必要がありますよ。2回びっくりさせました。嫌われたら困るので2回でやめね。OTでは卓球もしたり、まあ、健常側でラケットは持っていましたが・・。それと、神戸大学医学部保健学科開発らしい「麻痺上肢の機能テスト」を何回かしました。好成績だったようです。一番の理由は関節を楽に動かせるということでしょうね。人間は関節動物です。関節が動かせて動作をしているのです。お忘れなくね。トレッドミルで歩行しながら膝関節の稼働を向上させるのは無理かも。もっと低緊張の状態になるような方法で筋肉が弛緩しやすい状況にしておこなう方がよいと考えられるのですけどね。例えば、「車いす着座での両足活用ちょこちょこ歩行」とかね。  2月13日(日)、発症時の記憶。12回目。STね、元々発声不明瞭もあったし嚥下障害の恐れもあったしか、リハビリ病院ではSTもありました。当初はSTだけが女性だったです。途中からOTもね。どうも、発声の方が主体だったみたいでした。元々「ぞ」と「ど」と「ろ」が曖昧でした。「道路ローラー」なんて発音させるのはいじめものだと言ったこともありました。でも、練習するものですね。こちらは手足等と違って痙縮はないようです。嚥下の特訓は命がけですよね。しなかったです。転院月の最終日にセラピストさんと妻と知人とあってもらいました。妻と知人は口をそろえて「元にもどっている」とね。この日からでも、2ヶ月以上続けてもらいました。呼吸量を増加させるために瓶に水を入れてストローで「ぶくぶく」もしました。このときのストローの袋を吹き飛ばすという「ローマの休日」式リハビリもね。リハビリ室でコーヒーを入れたこともね。このセラピストさんともう一人の患者さんの3人で花見にもね。病院の敷地の桜ね。このとき、私の車いすの車輪が一つ凹みの落ちたので重心移動させて、落ちた車輪を浮かせていたら、セラピストさんが「車輪が浮いている」と飛んできました。体重移動で脱出できる凹みなのにね。

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