2013年12月2日月曜日

闘病記(視床出血)  左半身完全麻痺からの復活  No69

日常生活でのリハビリで思うこと  リハビリは成長と違う順序で体を使えるようにすることかな  「麻痺からの回復をより早く」にするには?  夜間のトイレ行きについて   遺伝子の賞味期限、遺伝子による保証期間?    宗教とはどのように思われていますか。   一昨日転倒しました。結末は?  11月25日(月)、昨日、スーパーに行ったときに冷蔵や冷凍のショーケースの縁の金属部分に両手で触れてみました。まだ、感度に差があるのです。より冷たく感じました。夏が過ぎて、気温程度では初夏に比べて温感の差は減少したと思っていたのですが、ショーケースでは以前と同様でした。これからは、こまめにスーパーでリハビリをさせてもらおうと思いました。左手の冷感を新たに担当した神経細胞が学習中のためでしょうね。つなぎ替えという脳での修復がないのなら、感覚は戻ってこないはず。戻ってきているというのは修復が行われていると言うことですが、死んだ神経細胞は死んだままで、もう処理されていると思います。夜、お風呂で意識を左右の温度感覚に集中してみたら、少し違うみたいですが、体温との差が少ないので判りにくかったです。ある方がブログで「手や腕の回復は最後」と聞いたとありましたが、私もです。考えるに単位面積あたりの皮膚感覚点の数や単位体積あたりの内部感覚点の数が多いからではとも、顔に比べて脳から遠いしね。なんか手間暇が掛かるみたい。日常生活でいろいろなところでもリハビリはできるとは思いますが、危険なリハビリとかになりそうな動作はしたくないです。寝起きに床から立ち上がるとかね。  11月26日(火)、昨日ある方のブログで掛け算の順序についてがありました。掛け算だけですと順序なんてどうでも良いと思いますが、足し算、引き算などが( )もあって入り荒れていたら、みんなと同じような手順でないと答えが違ってきますね。学校の勉強というのは、「今世間で最も正しいらしいこと」や「こう書けば誤解が最も少ないらしい」や「巷にあふれている情報の解釈の仕方」とかだったはずですね。子供のランキングに使うから「いじめ」が増えるのですよ。「増える」であって「起こった」ではないですよ。で、リハビリの順序ってあるのでしょうか。私の経験では、一番が「意識がはっきりしていること」、二番が「筋肉や関節を固めない」、三番目が「諦めない」かな。日中上体を起こして過ごせるというだけでも効果はあると思います。子供の成長にも順序というのがあるようです。それをはしょるから問題が多くなっている面もあると思うのです。人間の成長、胎児の時ですが「進化の過程をたどる」みたいに臓器や器官が作り替えられていきます。今の生命の仕組みとしては飛ばせないみたいです。その順序でないことをするのがリハビリかな。成長の時は「順序よく」ですが、リハビリはある部分だけを取り戻そうとすることですね。筋肉が出来上がっていて後付けでのバランス取りが我々みたいなのリハビリですね。ですから、強い筋肉の方に曲がってしまうのです。順序と違うことをするときにはそれなりに影響をよく考える必要があると思います。順序なんてどうでも良いものもありますが、順序が非常に大切なものもあるということです。  11月27日(水)、「麻痺からの回復をより早く」というのが我々の望みですね。断言していいのだろうか?と思ったりもしますが。ここで問題になるのが「手順」ですね。どのような道筋を思い描いてリハビリに取り組むのかということになりますね。「がむしゃら」でも取り組まないよりはよいと思いますが・・・。で、普通はリハビリをするときにPT、OT、STの各セラピストさんのお世話になるのですね。そのとき、指導手順というのはよく考えられているようになってきています。むちゃくちゃな時代は過ぎし日になっているようですね。私の場合は入院中楽しく楽しくリハビリをしてきました。PTはちと問題(男ね)があったのですが、OTとSTともリハビリ病院入院時の同じ方なら、もう一度入院したいという不届きな考えにもなったりします。やはり、楽しくでしょうね。無理なく筋肉を使えるようにかな。まずは伸縮ができればで、力具合はそれからね。関節は固めないですね。単純な動作で日常作業がすぐにできなくてもぎこちなくてぼちぼち続けてすることか。動かせれてたら感覚が戻れる、動かしているから感覚が戻ってきているのかどっちか判らないですが、脳には良い刺激になっているはずです。足では、車いすを麻痺した方も使って足で漕ぐとどうしても膝が曲がりますね。寝るときは伸ばしますね。漕ぐときは曲げながら力を入れることにね。膝の鍛錬になります。ある方のブログにあった「いつの間にかできるようになっていた」ね、何らかの取り組みを成果がすぐに出なくても続けるということが遠回りのようで近道かもしれないですね。歩数は昨日も12000歩になりました。これは入院中の車いす時代は一人で移動可になったときからの足漕ぎで足を鍛え、杖歩行可になったときから、用もないのにナースステーションと病室の往復をはじめ、その後病院内探索、病院敷地内散歩としてきたからかな。腕と手も動かし続けているようなものです。特に手はね。意識が回復し、しっかりし始めたときから日中車いすに座り続けた効果かな。当初腰が痛かったですが、しばらくしたら慣れました。脳の活動レベルを高める効果は高かったと思います。ところで、ホーキング博士はどうしているのでしょうね。  11月28日(木)、下のお話を一つ。先々日就寝前の小用がでなかったのです。午後6時頃に最終をしたままで、翌朝4時半までトイレに行かなかったですし、4時半というのは普通の起床時刻です。10時間以上特に我慢することなく保ったということかな。入院中、深夜帯の歩行許可を検討する機会がなくなった原因ね。別に深夜帯の歩行の許可がなくても、起きないし、なぜか(理由あり)車いすは確保していたし、ですが、リハビリ病院では1度だけ23時頃だったかなトイレに車いすで行きました。おしめの時も中で放出はなし。視床出血などでは失禁もあるみたいという他人事の感じですかな。その割に日中の尿持ちは夜間に比べて悪いです。失禁って他人事ではないでしょうといわれそうなときも出血前からあったような気もします。でも、一旦睡眠を始めると本来の起床時刻まで寝ることができるのは良いですよ。若いということはいいですね。ビッグベンは日中にしています。昨日の「より早く回復したい・・」はぼちぼちの人気のようです。内容は・・・で済みません。ただ、「これで確実回復する」なんてのはないと思います。「地道」と「要所を押さえる」とかで地道に続けるしかないのではと思います。感覚神経の回復ですが、刺激を与え続けることで樹状突起などが地道に成長するからではと思っています。次に新しく担当になった神経細胞に地道に学習してもらえるようなことを続けるとかね。楽しようとするから、焦るから回復が遅れるのかも。リハビリに取り組まない場合は医師の宣告のようになり、回復しませんよ。やはり、子供の学習と同じで「自発性」「自主性」「好奇心」など本来の内因性動機が高いほど早くなりやすいですかな。どう心がけるといいのでしょうね。  11月29日(金)、人間の遺伝子による保証期間はどの程度なのでしょうか。ちょいちょい初期不良があったりしますので絶対というのはないですけどね。多くの生物、そして動物、その中でほ乳類ですと、種保存に必要な子育てが終わるまでという感じがしないでもないのです。長寿の生物というのは大抵子供の数が少ないですね。ねずみ算という言葉があるようにネズミは多産ですね。寿命が短い。だから、時間が足らないとか。でも、遺伝子の保証機構は生殖に関する部位以外は杜撰らしいです。2年でしたか腫瘍乱発という話を聞いたこともあります。人間でこの程度で腫瘍乱発ですと既に滅んでいますね。免疫機構も寿命程度かな。子育て期間としてはどうも「人生50年」の方が人間に合っているのではとも思います。高齢者は遺伝子の保証期間が終わってしまっている感じかな。どうしても痛みが出てきますね。日常使っている器具等でも大切に使っているのとそうでなく乱暴に扱っているのでは製品寿命に違いが出てきますね。製品によってバラツキがあるのも影響しますね。家とか自動車とか楽器とかなどは大切に使うということが使わないより寿命を延ばすようです。人間の体も大切に使うということですね。でも、どのようにしたら「大切に使う」ということになるのでしょう。そして、「大切に使う」でもそのうち、「賞味期限」が過ぎてしまいます。これは「拝む」とかしても避けることができないものです。それより、「悟り」を開くことの方が何かにすがって「拝む」より大切ではと思います。DNAが環状から紐状に変わった時点で「寿命」という宿命を背負い込みました。バクテリア(環状DNA)は事故死はあっても寿命で死ぬということはないのです。iPS細胞で自分の各臓器の複製を作り続けて交換し続けば、脳が生きている間は何とかなるかもしれないですが、それで「生きている意味があるのか」と思います。  11月30日(土)、宗教について自説を一発。まあ、手塚治虫氏の「ブッダ」の読み過ぎの毛もなきにしもあらずですが、仏教もキリスト教もどちらも「人生の苦悩」というか「人間の存在の意義」というか「運命」というか、人間の苦悩についての「悟り」ですかな。「悟りに達する」ことで救われようとしたものではと思うのです。だれかに助けてもらうために「拝む」のではなく、「祈願」しても救われないのではと。その昔、「多良間しょんかねこう」というドラマがありました。その中で「神は助けてくれない」ということを悟るために祀っているというようなくだりがありました。そう、精神面で救うことのできるのは自分自身であり、修養などから自ら感じとるものであると思います。ただし、教祖の言葉は教祖によっていろいろね。「聖者」から「詐欺師」までいろいろね。「悟り」は「諦め」ではないですよ。私の回復が「奇跡的」とかいわれたのは「悟り」で状態を受け入れることができて回復に向かってリハビリに励めたからだと思います。お間違いのないようにしてください。よりよい人生を楽しむために良い意味での「悟り」が必要ではと思います。私の思う似非宗教は「すぐ金持ってこい」ね。すぐに「御祈願料」や「寄進をすれば救われる」とか「これを買えば・・の御利益がある」とかなどなどですね。信者が「悟り」を開き、「しばらくして救われた」と思ってからの寄進のみの宗教は私がケチをつける対象ではありません。教義による縛りの少ない方がよいと思っています。各自自身で考えてね。私の考える「しばらく」の期間ですが、数十年かな。そのほかいろいろ思うのですが、良きにしろ悪しきにしろ書ききれませんので各自でね。  12月1日(日)、一昨日、転倒しました。その結果について報告します。朝、花子との散歩中に躓いて「転倒」、歩数計で右大腿部を特に打撲、左右の手に切り傷少々。手は洗って済ませました。大腿部もあざとかはないので「骨折」とかの心配ね。でも、そのまま歩いて帰りましたから、筋肉の痛み程度かなとその当日は思いました。右足は健常側ですから、感覚神経はまともです。当日、訪問リハビリでみたら、左足にも少し打撲があったみたいした。まあ、時間とともに痛みとかが和らいでいるのでたいしたことなしと判断しました。それと12000歩越えね。転倒は朝だよ、転倒してから8000歩以上ね。昨日、右大腿部の痛みは減少していました。ほかの部分はたいしたことはなかったです。手とかの切り傷とかは発症前から、気がつけば傷があったというのをちょくちょくやっていたので特に問題はなしね。骨を鍛えて起きたいですね。少しぐらいのことで骨折しないようにするためにもね。骨は常に作り替えられています。お忘れなく。

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