2011年1月21日金曜日

命の大切さ

 再開させていただきます。今後ともよろしくお願いします。
 1月21日の朝日新聞のサイトに「ただ捨てられる命 犬・猫、殺処分を公開 松山の施設」という記事が出ていました。身近なところで命が粗末に扱われている例として、動物愛護に関するノンフィクション作品を手がける今西乃子(のりこ)さんが『「犬たちをおくる日」(今西乃子著、浜田一男写真)。1300円(税抜き)金の星』という児童書を書かれているというのです。児童書ですが、大人からの反響が大きいとか。
 ところで、殺処分(、「殺害」という形で、不要な、もしくは人間に害を及ぼす動物を処分することである。)される犬や猫は年間30万匹に上るというのです。そして、この大多数が「不要」として持ってこられたり、捨てられたりしたのが捕獲されたのでしょうね。
 「動物を飼う」といのは、畜産業では、最終目的というか処理方法がはっきりしていますね。そして、同じようにはっきりしているのが「ペットとして飼う」ということですかな。そして、ペットとして飼うというのは、家族の一員として受け入れることができない場合は資格がないのではと思ったりもします。ようは、人間の家族同様に接するということができないのなら飼わないことですね。
 しかし、現在は動物の感情とかを考えることもなく、ペットを飼っている人が増えてきているのでしょうか。その結果が、大きくなりすぎたとか、躾ができなかったとか、飼い主の見込み違いや不注意による理由ですかな。もし、そうなら、同じ失敗をしないようにするべきなのに次から次へとペットを入れ替えている人もいるというのです。その時、前に飼っていたペットは「殺処分」かな。
 これらは、気に入らなければ捨てるというか止めるということですね。新しいものに移るということ。でも、生き物を飼うのであれば、気に入らなくなっても寿命まで飼育するのは、飼い始めた時に負う責任でしょうね。それができないというのは、日常の場面でも問題がでてくることが多いと思われます。
 要するに、「気に入らなくなった」として、簡単にいろいろなものを捨てたりとか、文句を言ったりとかでしょうか。日常生活の内、消費生活の部分でもよい品を長くというのがあります。ところが、高度成長期に「大量生産大量消費」という生活に巻き込まれて、そのしがらみから抜け出せない状況をも通じるところがあると思います。
 もともとは「身勝手」で、悪い商業主義に乗せられてしまった人がこのようなことをする場合が多いのでしょうね。これは、子育てなどにも悪影響を及ぼし、同じようなことをする人間の再生産がおこなわれていると感じます。日本の教育がよくならない原因とも考えられます。特に「モンスターペアレント」などが犬や猫とはいいませんが、周りに言いがかりをつけているところなどは根本が同様かなと考えます。

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