2013年9月1日日曜日

学力テストの順位競争で失うもの、学力

 文部科学省の全国一斉学力テストの結果が出ましたね。その巷の反応をニュースでみていると、あの昭和の大失敗させられた学力テストの失敗させた方の亡霊を見る思いを抱きました。はっきり言って「順位で何があるの?」。まあ、よい方がちょっとだけましかなとも思いたいのですが・・・。  世界的に見ても、ある程度豊かになってくると、競争というか順位付けでは学習から逃げてしまうのがでやすくなるようですね。それと、この順位には人間性の評価が全く出てこないですよ。どこかの国の金の亡者みたいにあっちが儲かりそうだと思うと雪崩を打って向かい、こっちと思えばドドッとね。それと同じでじっくり育てるとかがなくなって「ともかく得点がとれればよい」だけの人間を育てることになりませんか。  あの昭和の学力テストの時、優秀だった県から人材が輩出したという話は聞きませんね。並でしょうね。普通の児童生徒は「順位で評価」が普通と思い込むかも。評価してから並べてみたら順位はでますが、そのときの基準は? 価値観は? という大切な部分が抜け落ちたまま比べることになるのでは。  ノーベル賞の価値観は「人類の幸せにどう貢献したか」だとノベール賞受賞者の野依良治氏が母校での講演で述べられたいました。受賞理由のなかに「優秀」とかの言葉は全くないとね。中国や韓国からノーベル賞受賞者が出にくい理由かも。日本もでが科挙の伝統、暗記試験の順位での評価の伝統とはほど遠いと思います。ということは、日本で暗記による順位付けから抜けていたところがあったのかも。  小柴氏は東大理学部物理学科をビリ卒らしいですね。田中耕一氏は東北大学で留年したらしいですね。下村博士は俗にいう秀才ではないですね。益川氏も逸話を持っていますね。そして、どなたも、俗にいう順位競争はせずに自分の信ずる道をというか、努力されてきたということだと思います。いかに自身の力を伸ばしてきたかということです。そして、「これだけしたら十分」というのはないでしょうね。各自いろいろだと思います。学力テストの範囲は、ある意味必要最小限かも。順位や平均点とかが簡単にでるのは、よくて必要最小限のことだけかも。真の学力評価なんてできないのでは。   だから、学力テストの順位は学力テストの順位であって、その人の能力の一面しか評価していないのと同様に都道府県の順位も学校順位も単に一面だけね。児童生徒の学力全般や諸能力の向上に取り組んで、よかったら儲けもの程度でしょうね。それより、生涯を通して活躍できる力をつけさせるため、その一部を担う学力についての全国調査が目的であって、順位付けはおまけでもなく、完全に目的外のはず。アメリカでは学校間競争、イギリスもかな、で、学力が低下したという報告もあります。 この書き込みのメールマガジンの申し込みはまぐまぐのページでお願いします。

0 件のコメント: